― Absolute disorder ―

脳梅毒受験日記 第一章 ― Absolute disorder ―

 朝、目が覚めた瞬間、すでに終わっているという感覚があった。
 終わっているのは人生ではなく、むしろその逆で、まだ続いてしまっていることの方だった。

 部屋は静かだった。
 1107号室。机の上には参考書が積み上がり、壁には絵がかかっている。空気は動かず、ただ時間だけが流れている。

 この静けさは、回復ではない。
 単に、すべてのノイズが一度消えただけの状態だ。

 かつて私は、音の中で生きていた。
 パチンコの金属音、酒場のざわめき、女の喘ぎ声。
 それらはすべて、外部から供給されるエネルギーだった。

 今は違う。
 何も鳴っていない。

 にもかかわらず、頭の中だけが異常にうるさい。

 Absolute disorder。

 その言葉が、何の前触れもなく浮かび上がる。
 白いTシャツに印字されたただの英単語にすぎないはずなのに、それは妙に生々しく、私の内部に貼り付いて離れない。

 絶対的無秩序。
 あるいは、不可逆の崩壊。

 それは過去の説明ではなく、現在の状態の名称のように思えた。

 机に向かう。
 英単語帳を開く。
 見慣れたはずの単語が、すべて異物のように見える。

 memory。
 failure。
 desire。

 どれも、意味は知っている。
 だが、その意味が自分の内部と一致しない。

 ページをめくるたびに、別の映像が割り込んでくる。

 女の体だった。

 特定の誰かではない。
 しかし確かに、何度も触れたことのある質感だけが残っている。
 柔らかさと、湿度と、匂い。

 それらは記憶というより、むしろ反射に近い。

 私は目を閉じる。
 だが、映像は消えない。

 むしろ鮮明になる。

    Absolute disorder。

 その言葉と、肉体の記憶が結びついていく。
 秩序の外にあるもの。
 計算も、努力も、積み上げも不要な領域。

 ただ繰り返される行為。
 意味を持たない反復。

 そこでは、時間すら必要ない。

 私はその世界を、すでに知っている。

 そして、そこに戻る方法も知っている。

 だが同時に、それがどこに繋がるのかも知っている。

 破綻。
 借金。
 空白。

 すべては経験済みだった。

 だからこそ、机に座っている。

 単語帳を閉じる。
 代わりに過去問を開く。

 東京大学。文科一類。

 この文字列は、ある種の装置だ。
 崩壊を止めるための、極めて人工的な構造物。

 問題文を読む。
 英文は長く、複雑で、無機質だ。

 しかしその無機質さが、逆に安心を与える。

 ここには女はいない。
 酒もない。
 金も動かない。

 ただ、構文と意味だけがある。

 私は一文ずつ訳していく。

 主語。
 動詞。
 目的語。

 その単純な秩序の中に、自分を押し込んでいく。

 だが、完全には消えない。

 脳のどこかに、別の回路が残っている。

 そこでは、今もなお、同じ映像が再生されている。

 Absolute disorder。

 それは敵ではない。
 むしろ、エネルギーの源に近い。

 問題は、それをどこに流すかだけだ。

 私はペンを握る。
 解答欄に、日本語を書き込む。

 正確に。
 簡潔に。
 無駄なく。

 その行為は、かつての自分から見れば退屈で、無意味で、耐え難いものだったはずだ。

 だが今は違う。

 この単調さの中にしか、持続は存在しない。

 ふと、時計を見る。
 まだ朝の九時を過ぎたばかりだった。

 一日は長い。

 そして、その長さこそが問題だった。

 かつては、その長さを埋めるために、あらゆる手段を使っていた。

 今は違う。
 埋めない。

 ただ、通過させる。

 時間を殺すのではなく、時間に耐える。

 それだけが、残された方法だった。

    Absolute disorder。

 その言葉は、まだ消えない。

 だが、消す必要もないのかもしれない。

 むしろ、それを抱えたまま進むしかない。

 完全な秩序など存在しない。
 同様に、完全な崩壊もまた存在しない。

 あるのは、その中間で揺れ続ける状態だけだ。

 私は再びページをめくる。

 英文は続いている。

 人生も同じように、途中で終わることはない。

 ただ、次の一文が来るだけだ。

 それを訳すか、放棄するか。

 選択は、それだけだった。

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