脳梅毒受験日記 第三章 ―発狂と創作―
発狂とは、壊れることではない。
壊れたものを、もう一度こちら側へ持ち帰ろうとする運動のことだ。
私はそう考えるようになった。
彼女の絵を見ていると、いつもその感覚がある。
何かが崩れている。
だが、ただ崩れているだけではない。
崩れたものを、絵の中に閉じ込めようとしている。
父親が壊れていく。
生活が壊れていく。
言葉が通じなくなっていく。
その光景を、ただ眺めているしかなかった人間が、最後にできることは何か。
助けることではない。
治すことでもない。
元に戻すことでもない。
それらは、すでに不可能だった。
ならば、封じ込めるしかない。
死んでいくもの。
崩れていくもの。
失われていくもの。
それを絵の中に移す。
現実では救えなかったものを、作品の中でだけ生かす。
私はそこに、創作の原型を見る。
美しいから描くのではない。
描かなければ、自分が崩れるから描く。
そこには、表現以前の切迫がある。
私は、その切迫に惹かれているのだと思う。
完成された絵よりも、
整った技巧よりも、画面の奥に残った発熱に反応する。
これは病気なのか。それとも審美眼なのか。
たぶん、その境界自体が曖昧なのだ。
私は何度も壊れた。
酒で。
女で。
金で。
賭博で。
しかしその壊れ方には、作品がなかった。
ただ減っていくだけだった。
金が減る。
信用が減る。
体力が減る。
時間が減る。
残ったのは、領収書と記憶と借金だけだった。
それに比べて、彼女たちは違う。崩壊を何かに変えている。
絵。
言葉。
身体。
沈黙。
たとえそれが歪んでいても、外に出している。
私はそこで、自分との決定的な差を見る。
自分は崩壊を消費してきた。
彼女たちは崩壊を変換している。その差は大きい。
そして痛い。
机の上には、数学の問題集が開かれている。
だが、私の視線はすぐ壁の絵に戻る。
絵は何も言わない。何も言わないが、確かにそこにある。
それだけで十分だった。
人間は裏切る。
記憶は変質する。
関係は壊れる。
だが、作品はそこに残る。
もちろん、作品も価格を失う。
市場も冷える。
評価も揺れる。
それでも、物体として残る。
この残存性に、私は救われているのかもしれない。
彼女の父親が崩壊していったとしても、
彼女がその崩壊を絵にしたなら、父は完全には消えない。
少なくとも、画面の中では生き残る。
それは祈りに近い。
宗教ではない。信仰でもない。
だが、限りなくそれに近い行為だ。
壊れたものに、もう一度形を与えること。
それが創作なのだとすれば、私にもまだ可能性がある。
私の中にも、壊れたものは十分にある。
むしろ、ありすぎる。問題は、それをどこへ流すかだ。
再び女へ流せば、また消える。
酒へ流せば、また腐る。
賭博へ流せば、また数字だけが燃える。
だが、文章へ流せば、残る。受験へ流せば、点数になる。
この差は決定的だ。発狂とは、終点ではない。
発狂したまま、何かを作ること。
それだけが、こちら側に戻る方法なのだ。
私はペンを取る。
数学の余白に、数式ではなく言葉を書いてしまう。
Absolute disorder。
発狂。
父。
絵。
東大。
ばらばらの単語が、紙の上に並ぶ。
まだ文章にはなっていない。
だが、それでいい。
最初から秩序だったものなど、信用できない。
無秩序をそのまま紙に置き、
あとから並べ替える。
それが、自分にできる唯一の方法だ。
私はようやく理解する。
自分が惹かれていたのは、壊れた女ではない。
壊れたまま何かを作ろうとする人間だった。
そして本当は、自分もそうなりたかったのだ。
発狂を、作品にする。
崩壊を、受験にする。
依存を、文章にする。
それができたときだけ、過去は単なる損失ではなくなる。
私はもう一度、壁の絵を見る。
そこには救済などない。ただ、壊れたものが壊れたまま保存されている。
それで十分だった。
救われなくてもいい。消えなければいい。
私はノートに、次の一行を書く。
――今日もまだ、崩壊は終わっていない。
そして、その下に英単語を一つ書いた。
continue.
